2010年7月29日木曜日

エチオピア編③シバ女王伝説


シバの女王伝説(エチオピア) 

紀元前10世紀頃、紅海交易を支配していたのはシバ(サバ)の女王国でした。当時、紅海貿易のキャラバンは沿岸の猛烈な夏の暑さをさけ、涼しいアビシニア高原を横切りナイル河沿いのルートを確保する必要がありました、交易ルート上には南アラビアからシバ人(セム族)の移住が続き、定住していたハム系クシ族を追い出し、ブルー・ナイル上流地域に古代アラビア文字・ギーズ語や鉄器や太陽や月を崇める儀式や文化が流入します。シバ王国は南イエメンからアビシニア(エチオピア北部)一帯まで勢力を伸ばしていたと考えられています。当時アラビア半島北部・古代イスラエルを支配していたのは賢者ソロモン王でした。統一者ダビテ王の後を引き継いで次第に近隣の国々を勢力下に置き、やがて香料交易を脅かす存在までになっていたのです。  
エチオピア正史(クプラ・ナガスト「王の栄光」)によると。「シバの女王は難問を持ってイスラエルのソロモン王を訪ねました。しかし大いなる王の聡明さに深く感動し、持参した空前絶後の香料、金銀、宝石等を献上してしまいます。ソロモンは最後の晩、盛大なる宴を催し、シバの女王に同じ天幕で休むよう願いました。“私に触れないと約束するなら”すると王は“私のものもとらないよう”と条件をだします。シバの女王は夜半、耐え難いのどの渇きを覚え、王の枕もとの水を飲もうとします。それは食事に入っていた(仕組まれた)香辛料のためでした。王はまんまと約束を反故にし水を与え一夜の契りを交わした」とそのロマンスを伝えています。(この物語は逸話を変え、旧約聖書「列王紀」にシェバ女王として。またイスラムのコーラン「蟻の章」にもサバ女王の名前で登場します。)こうしてソロモン王とシバ女王との間に男子が誕生したのです。やがて成人した王子はエチオピアに帰り、メネリクと名乗ってアクスムという国を建国しました。(その時密かに、あのモーゼの十戒を刻んだ石板を持ち帰ったと伝えられ、それを入れた箱 (アーク)が今もアクスムのどこかの教会の地下に眠っていると言われます。)その後、アクスム帝国は発展をとげエジプト、インドやイタリア等との交易をおこない。エチオピア文字を完成させ。紀元 330年には子孫のエザナ王がキリスト教を国教と定めました。 かつてのエチオピアの国旗(ハイレシェラシェ皇帝時代)には十字架を持ち冠を頂く獅子が描かれていましたが、獅子はメネリクに始まる、遙か3千年にわたりアビシニアを支配した王権を象徴していたのです。そして十字架は国教であるエチオピア正教(キリスト教)をさしているのはもちろんです。このようにエチオピアとイエメンは元々親子の間柄なのです。

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