2010年8月10日火曜日

エチオピア編⑧栽培地補足




エチオピアではその修道院とブルーナイルの水源・タナ湖の半島中心にある15~16世紀に建てられたエチオピア正教教会(Ura-Kidanemeret)は関係があるといわれています。(※少なくとも17世紀にはポルトガル人アルメイダにより、タナ湖北岸のアザゾで栽培されていたことが確認されている)いまも半島(タナ湖西岸のゼゲ地区)のいたるところには数千本のコーヒー・ジャングルが残っていますが、これらのコーヒーの木は原種に近いとされコーヒーリサーチセンターの手で品種改良に利用されています。はたしてそこが発見伝説の地であるかどうかはさておき、一度は訪ねたいコーヒーの原風景ではあります。ところで、コーヒーの語源はそのカファ(Kaffa)に由来しているといわれていますが…(※イエメンではカフワ(Qahwah)なるワインの一種をさす言葉がコーヒーの語源といわれる)アラビカコーヒーの発祥の地がエチオピア西南部のカファ地方であることはほぼ間違いないようです。カファ地方あたりにはコーヒーノキに多くの亜種や変種がみられ、部族により違った呼称(ブノbuno,カリkari,ギアgia,ティカtikaなど)でコーヒーが呼ばれ、その利用法も飲料、食料、儀礼など多岐にわたっていることからです。例えば、エチオピアの西南部マジャンギル族社会では共にコーヒーを楽しむ親しい関係をカリオモンと呼びますが、カリは「コーヒーの葉」をさし、オモンは「同一」をいう。焼畑と狩猟・採集で生活するマジャンギル族は元来コーヒーを栽培しないそうですが、猟や蜂蜜採集の帰りに野生のコーヒーの一枝を持ちかえり、枝ごと火にかざし手でもみほぐし、土器に水とともに入れ煮出すそうです。また、ボディ族では色つけにモロコシの穂や塩やトウガラシなどの香辛料を加え、午後の休息の清涼飲料として、食事のスープとして楽しんでいるという(※京都大学・福井勝義、佐藤廉也氏の研究)。こうしたコーヒーの葉を利用した飲み物はエチオピアでは一般化していて、ハラール地方ではクティ(Quti)と呼ばれていたが、いわゆるコーヒー飲用文化は葉の利用から始まったことがうかがえます。いまも西南部カファ州①はジンマを中心にコーヒーの一大生産地であることに変わりありませんし、年間を通して雨量も年間1,500~2,500mmがあり、よく大木が育ちます。そこで採れるコーヒーは栽培精選に問題があり、小粒で不揃、配合や増量用のコーヒーですが。近年はプランテーションによる良質の水洗式コーヒーも増えています。エチオピア西部を代表するコーヒー産地はウォレガ州のレケムティでしょうか。普通、農園の真中には大木のシェイド・ツリーがありそのまわりを囲むようにコーヒーが100~200本栽培されている。収穫は遅く、2月末から始まります。豆の形状は中からやや大型で豆の先がとがっている。良質のものはほどよい酸味とコクがあり、スッキリした後味をもつ。又、南部シダモの高地(約2000m)では豊かな水を利用して水洗式コーヒーをつくっています。その高級品がイルガチェフェ・コーヒーです。豆は中くらいのサイズで上品な酸味とコク、フローラルなデリケートなモカ風味がありストレートで賞味します。ところで、エチオピア西南部に自生していたコーヒーノキは13世紀頃からエチオピア各地、イエメンまで伝播されていったと思われますが、エチオピア東部ハラール州で本格的にコーヒー栽培が始められたのは16世紀といわれています。コーヒー栽培地や仲買人にはオロモ人が多く見受けられ、イスラムを信仰する人も多い。コーヒーの栽培は最大部族オロモ人の移動の歴史と宗教に深い関わりがあったに違いない、と私はにらんでいます。(現在エチオピアは8つの州に別れオロミア州は広域にひろがっています)いまだに輸入が再開されませんが、エチオピアを代表する最高級コーヒー・ハラールを代表するのはガラ・ムラタ山脈(標高3320m)の南斜面に産出します。この一帯の山肌は黒く雨が多く緑が深い。さてなぜ最高級品であるかというとゴールデン・ビーンズが混じるからです。その豆がコーヒーにより深い風味をかもし出す。その代表的集散地ハラワチャを訪ねるにはかつてのキャラバン・ルートの要塞都市ハラールの町から南西に100㎞ほどいき、3000mの峠を越えることになります。そしてその産地ジェルジェルツー村への道はロバにも厳しい山道で、トヨタの4WDでやっと登り下りすることができる。そこには標高1800~2000m、樹齢100 ~ 200 年のコーヒーの木が規則的に林立し栽培されていました。高さは7 ~ 8 mに達し、ラダーと呼ぶ三脚梯子で完熟したコーヒーの実を採取して、おそらく世界でも一番古いコーヒーの栽培地の一つ(ゴールデンビーンズが混じる場所がも一つあるという)だろうと思われます。

2010年8月9日月曜日

エチオピア編⑦産地の気候風土




先にも触れましたがイエメン、エチオピアでは地溝帯に沿ってアルカリ玄武岩の割れ目噴火が度々起こり、広大な溶岩台地を形成しました。この台地玄武岩の厚みはアビシニア高原下で数百㍍、地溝帯縁辺部では2000 ㍍を超えるといいます。(北部アファールや中南部では多少様相が異なりますが1300~1800 ㍍)、栽培されるコーヒーにとって地層的には西南部カファと東部ハラールは同じ条件であるかのように見えます。が、カファの内陸的気候風土とハラールのそれと
では雨量や風、土壌など大きく異なるのです。資料のように西南部カファでは単峰型で年間雨量は2500 ㍉前後、年間を通じて強い雨が降るため土質の流出が行われ、土壌は酸性度が若干強くなります。東部ハラールでは双峰型で1000 ㍉強の年間雨量しかなく雨期と乾期が2 回あります。アルカリ玄武岩質を保った土壌は中性よりです。  栽培システムで分けるとなると、①フォレスト・コーヒー、② セミ・フォレスト・コーヒー、③ガーデン・コーヒー、④プランテーション・コーヒーの4つのタイプに別れます。①フォレスト・コーヒーはバレ、ウォレガ、ジマなどの地域に産出する森林樹の陰に野生化している、いわゆるワイルド・コーヒーから採取したコーヒーで自ずとその特徴はバラエティにとんでいます。産出量全体にしめる割合は10㌫。②セミ・フォレスト・コーヒーは①の地域に見られる、農家が管理します。適度の日照が受けれるようシェイド・ツリーの枝をはらい、下草をかって収穫につとめます。全体の35㌫。③ガーデン・コーヒーは東部ハラルゲ(ハラール)。南部、シダモ、オモ、ウェロガ、及びグラゲでも栽培されているタイプです。1㌶につき1000 ~1800本の割合で低密度に栽培され、有機肥料などを与え、農家はいろいろの他の作物もつくっています。全体の50㌫をしめます。④プランテーション・コーヒーには国営の大規模や民間の小規模コーヒー農園があり。とくに西南部、南部で水洗式設備を持ち、行き届いた管理のもとに品種改良、苗床や日照管理、剪定や施肥料など、栽培学に基づいた栽培がおこなわれています(イルガーチェフェはその代表格)。しかし全体からみればわずかにすぎません。 これらが産地の特徴となってエチオピアコーヒーのバラエティに富んだ香りと味の世界をつくりだしていたわけです。東部ハラールはコーヒーの栽培地として最適でした。取引でもモカ・コーヒーとして高い評価を受けます。しかしその栽培はイエメンとともに一歩人間に近づけている。気候や栽培法、品種の多様性からみてもアラビカコーヒー発祥の地はエチオピア西南部だと思います。 

2010年8月8日日曜日

エチオピア編⑥コーヒーセレモニー

  ③生豆を洗う                  ④豆を煎る                    ⑧搗き割る


コーヒー・セレモニーの手順
①七輪(ケセルマンチュッシャ)に木炭で火をおこす。②鉄ナベ(ブランドムタット)にコーヒー豆(ブンナ)をいれる。③そこへ水(オハア)をいれしごくように数回洗い水をきる。④七輪にのせてゆっくりひっかき棒(マクラヤ)で撹拌する。⑤水蒸気が消えたら団扇(マルゲブゲブ)で火を強め、さらに撹拌する。⑥色好く煎れたら、頃合いをはかり皿かザル(スセット)に移して水をさしてさます。⑦素焼きのポット(ジャバナ)に湯を沸かす。⑧その間に臼(モカチャ)と杵(ゼナゼナ)でコーヒー豆を搗きわる。⑨細かくなったら、湯の沸いたポットに入れて煮出す。⑩沸騰したらカップ(セニ)に何度か注ぎ色を見る。十分に色が付いたら、火からはずして、ポット敷きに少し傾けておく⑪残り火でポップコーンやチッケピス豆などのおつまみを炒る。⑫残り炭を香炉にいれ、マツ脂、乳香等の香料を焚き、場を清めます。⑬注ぎ口に繊維のフイルターをつめ注ぎわけます。すべての手配はその家の娘が引き受けます。まず最初の一杯は大地に注ぎ感謝します。次に長老や主賓へ、そのときポットは水平に移動させ、中のコーヒーを暴れさせないのがコツです。一番目のコーヒーをアボール、香り高くビミです。二番目をタウナ、塩とか砂糖をくわえます。三番目をバカラバターや香辛料をいれたり、庭の香草などをいれます。(※地方、部族で呼び方は少し異なります)コーヒーが出来るまで約1時間、おしゃべりを加えると1時間半、ゆったりと至福の一時です。 

2010年7月30日金曜日

エチオピア編⑤コーヒー飲用の始まり


ここで京都大学・故と福井勝義先生のコーヒーに関する報告をご紹介しますと(アビシニアの奥地、そこにはコーヒー発祥の地とされるカファ地方があります。そこの現地調査をもとにして)、アラビカ・コーヒーは他のコーヒーの品種と異なり、異質倍数性(他は2倍体である)であり自家受粉します。アラビカ種の中心地はエチオピア西南部の1000~2000㍍の地域であり、ここには遺伝的変異が豊富に見出される地域で、またサビ病がアラビカ種と共生していることなどから、エチオピア起源説を植物学的に指示する.. Meyer説を推した上で、「これまで言われているように野生のアラビカ・コーヒーが西南部(カファ地方)に広く分布しているとする説(変種、亜種はあるが)に疑問を呈し、アラビカ・コーヒーの野生種(原種)は植物学者によって報告されたことはあっても確認されてはいない」と述べています。エチオピアはイエメンより以前から東地中海やインドと交流をしていたのに外に伝播しなかったのは、交流を持っていたのがエチオピア北部のアクスムが中心であったからであり、メネリク2世がエチオピアの南部のカファ王朝を征服しエチオピアを統一したのが19世紀末であり。カファ地域の特異性から、他部族とのひんぱんな交流でコーヒーの有用性は早くからアラブのしるところであった、イエメンに伝わったのは、東部ハラールに拠点を置きアラブが南部にその勢力を拡張した13~14世紀が妥当であろう」との見解です。コーヒーの呼称については大別すると3つの体系があり。①buna(ブナ)型 セム系のアムハラ、ティグリヤ、グラゲ、ハラーリ語。またクシ系のガラ、アガウ、ジャンジェロ語がこれに該当し。②qahwa(カフワ)型 東部のセム系ハラーり族、グラゲ族に見られ、コーヒーの豆・葉・殻もしくは茶の葉を利用した飲料である。特に葉からつくったコーヒーを.. qutti qahwa(クティ・カフワ)とよび豆からつくったコーヒーを.. bun qahwa(ブン・カフワ)。殻からつくったコーヒーをhasar qahwa(ハサール・カフワ)とよんでいる。これはアラビアqahwaにもとずくものだ(Leslou説)。 そして、発祥地西南部では③多様な呼称を用いている。ボディ 族は.. tika 、ギミラ族やマジャンギール族は.. gia(ギア)や kari
(カーリ)とよぶ。呼称が多様で土着的であることや、豆、殻、葉も香辛料などとともに薬と用いる方法から、アムハラ系やアラブ系呼称の影響を受けない独自のコーヒー文化が発達していると福井先生はのべています。 また西南部に残る、儀礼におけるコーヒーの役割にも言及し、A力をそなえたコーヒー、B超自然界との媒体、C場の移行としてのコーヒー、D出会いのコーヒーがあることを詳しく述べています。これらのことから、コーヒーの発祥地はやはりエチオピア西南部であろうとのべられています。(※多くを書けませんので是非「茶の文化」第2部淡交社刊・福井勝義著を入手され読まれることを私はお薦めします) そして、コーヒーの飲用については二種類の飲み方あることを紹介されています。①は(いわゆる現在、コーヒー・セレモニーとして知られている)定着型農耕民の地域に見られる煮出す濃厚なコーヒーであり、塩やバターや香辛料を加えて飲む。②は、遊動する農耕民や牧畜民にみられる瞬間煮沸式淡泊型のコーヒーである。先生は牧畜民ボディ族調査に向かう途中、マラリアにかかり苦しんでいたところ、でてきたのが1㍑も入るヒョウタンにトウガラシとショウガを入れたうすいうすいコーヒーで、トウガラシの粉を吹いて遠ざけながら飲みほすと、まもなく多量の汗がでて熱が下がったのだといいます。そしてそれはボディ族に日常的に観察出来ると述べておられます。  ここで、イスラム法学者ザブ・ハニーに話を戻しますと。②こそがザブ・ハニーが飲んだコーヒーであるようにおもいます。なぜなら①は明らかにアラブの影響を受け、逆輸入されたbuna型飲用法ですから。 私論ですが、それはイスラム以前、イエメンにかつてあったkahwa(コーヒーの語源・ワインの一種)の製法(発酵しすぎを熱火を加えて止める)と結びつき現在のコーヒーに発展したように考えられます。一説ではbunn(ブン)とは昔、果実一般を指した!?言葉だそうです。

2010年7月29日木曜日

エチオピア編④発見伝説


コーヒーのバイブルと呼ばれる「オール・アバウト・コーヒー」にはコーヒー発祥地としてエチオピア説とイエメン説をあげ、有名な2つの発見伝説を紹介しています。しかし私の聞き取り調査では、エチオピアの人々は<レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニーの「眠りを知らない修道院」1671年>山羊飼いカルディの発見伝説を知っていましたが。片や、イエメン人は誰一人として<アブダル・カディール「コーヒー由来書」1587年>のシェイク・ウマールの発見伝説を知りませんでした。彼らはコーヒーは昔からイエメン(オダイン地方?)にあったのだと信じています。すでに述べたように、太古からの紅海交易のどこかで薬・食料として伝播したであろうことは想像にかたくなく。渡り鳥が運んだ説・動植物条件まで加えると、どちらにあっても全くおかしくはないわけです。それら以上に説得力のあるのが、東アフリカ(東・西)大地溝帯の形成過程でしょう。 エチオピアに行ってまず驚くのは、その景観です。最高峰ラス・ダジャン 4620㍍を筆頭に 2~ 3千㍍の山々が連なっています。東部地溝帯がはしり。それはヨルダン・死海から紅海へ、エチオピアを斜めに二分します。そして南の中央タンザニアの台地に消える。また西部地溝帯はウガンダ・アルバート湖に始まりモザンビークを経てインド洋に達する。遙か 6000㌔の大断層です。地層学的に言えばアラビア半島は今もアフリカ大陸から裂け別れているのです。そして興味深いことには地溝帯に沿って火山帯があり溶岩台地をつくっています。北部になるほど弱く、アルカリ玄武岩等の組成は早く形成されたことを意味するようです。このようなエチオピアとイエメンの地理的連続性を考える時、一方にコーヒー発祥地を決めつけること自体がナンセンスにも思えてきます?!。 横道にそれるようですが、私がモカ・コーヒーに関心を抱いたのはモカの持つスパイシーな香りの正体を知りたいためでした。香りののみものとしてのコーヒーに惹かれたからです。この十数年、度々エチオピアやイエメンに行ってみて、そこでの生活にはさまざまな香料が用られていることが解ったわけです。かつてのエチオピア・イエメンがインド(南海貿易)からイタリア(地中海貿易)に至る香料貿易の中継センターを担っていたことから当然のことですが。それからは興味を持って、古代・中世・近代に至るの香料の歴史を学んだのでした。 コーヒー、それはシバ王国以来の香料交易の延長上にあるのです。没薬などのもたらす薬効をコーヒーが引き継いだのです。


エチオピア編③シバ女王伝説


シバの女王伝説(エチオピア) 

紀元前10世紀頃、紅海交易を支配していたのはシバ(サバ)の女王国でした。当時、紅海貿易のキャラバンは沿岸の猛烈な夏の暑さをさけ、涼しいアビシニア高原を横切りナイル河沿いのルートを確保する必要がありました、交易ルート上には南アラビアからシバ人(セム族)の移住が続き、定住していたハム系クシ族を追い出し、ブルー・ナイル上流地域に古代アラビア文字・ギーズ語や鉄器や太陽や月を崇める儀式や文化が流入します。シバ王国は南イエメンからアビシニア(エチオピア北部)一帯まで勢力を伸ばしていたと考えられています。当時アラビア半島北部・古代イスラエルを支配していたのは賢者ソロモン王でした。統一者ダビテ王の後を引き継いで次第に近隣の国々を勢力下に置き、やがて香料交易を脅かす存在までになっていたのです。  
エチオピア正史(クプラ・ナガスト「王の栄光」)によると。「シバの女王は難問を持ってイスラエルのソロモン王を訪ねました。しかし大いなる王の聡明さに深く感動し、持参した空前絶後の香料、金銀、宝石等を献上してしまいます。ソロモンは最後の晩、盛大なる宴を催し、シバの女王に同じ天幕で休むよう願いました。“私に触れないと約束するなら”すると王は“私のものもとらないよう”と条件をだします。シバの女王は夜半、耐え難いのどの渇きを覚え、王の枕もとの水を飲もうとします。それは食事に入っていた(仕組まれた)香辛料のためでした。王はまんまと約束を反故にし水を与え一夜の契りを交わした」とそのロマンスを伝えています。(この物語は逸話を変え、旧約聖書「列王紀」にシェバ女王として。またイスラムのコーラン「蟻の章」にもサバ女王の名前で登場します。)こうしてソロモン王とシバ女王との間に男子が誕生したのです。やがて成人した王子はエチオピアに帰り、メネリクと名乗ってアクスムという国を建国しました。(その時密かに、あのモーゼの十戒を刻んだ石板を持ち帰ったと伝えられ、それを入れた箱 (アーク)が今もアクスムのどこかの教会の地下に眠っていると言われます。)その後、アクスム帝国は発展をとげエジプト、インドやイタリア等との交易をおこない。エチオピア文字を完成させ。紀元 330年には子孫のエザナ王がキリスト教を国教と定めました。 かつてのエチオピアの国旗(ハイレシェラシェ皇帝時代)には十字架を持ち冠を頂く獅子が描かれていましたが、獅子はメネリクに始まる、遙か3千年にわたりアビシニアを支配した王権を象徴していたのです。そして十字架は国教であるエチオピア正教(キリスト教)をさしているのはもちろんです。このようにエチオピアとイエメンは元々親子の間柄なのです。

2010年7月27日火曜日

エチオピア編②

                 プントの王と王妃そして香料(エジプト・カイロ博物館)
 エチオピアとはギリシャ語で「日に灼けた人」、アラビア人はアビシニアの人を「混血」と呼びます。一説にはキリスト教が40㌫を占め、イスラムが40㌫、原始アニミズムが20㌫と言われ、約26の種族、100以上の言語が混在します。 
処で、古代エジプトで重用され、祭儀に欠かせないものが焚香料(乳香・没薬など)でした。祭壇に生け贄を捧げ、香料を焚き浄め、立ち上る燻煙で神官は天上の神ラーと交信したのでした。為政者は香料を得ることに命運をかけました。たとえば第18王朝ハトシェプスト女王(前15世紀)、その葬祭殿に残されたバスレリーフによりますと、「プントの道を探し求め乳香の國への通路を見出すべし」と神の啓示を受けた女王は、直ちにプントに5隻の遠征船を派遣しました。そしてついに使者は前代未聞の大量の香料と宝物を持ち帰り。女王はそれをアモンの神前にささげ、神苑に31本の香樹をうつし植えたと伝えてます。プントの国とはエチオピアの隣ソマリアか南アラビア辺りと想像されます。その一帯は乳香・没薬などの一大産地であったとされ。今でもエチオピアには没薬が。イエメンの東南部ハドラマウト地方からオマーンにかけては乳香を産出します。 やがて、紀元前11世紀ころにもなると海と内陸の交易ルートは出来上がり。香料をはじめとする交易が盛んに行われていたようです。

イルガチェフェ・エチオピアモカの輸入再開


お知らせ; この度、2年半ぶりにエチオピアの豆ニュークロップ、イルガチェフェが入荷しました。残留農薬問題の原因が特定されず、まだエチオピアからの直接の輸入がリスクを伴う為、ヨーロッパ経由での入荷となりました。輸入業ワタル㈱さんの快挙です。無事に焙煎を終え本日よりお飲みいただけます。フローラルな甘い香りでスッキリとした味わいの珈琲です。
是非一度お試し下さい。http://www.cafebimi.com/ そして再開を祝いましょう。


2010年7月22日木曜日

コーヒー発祥の地エチオピア①

             ブルーナイル・ティスイサットの滝エチオピア

モカに始まり…エチオピア編
さてエチオピアに「黄金の土」というお話があります。
昔、地図をつくりにヨーロッパから2人の探検家がやってきま
した。何年もかかり仕事を終えて、いざ帰国する時に、王の召
使いが靴についた土を丁寧にこすり落として申します。「…エチ
オピアの大地は、わたしたちの父であり、母であり、きょうだい
なのです。わたしたちはあなたがたをあたたかくもてなしたし、
めずらしいおくりものもさしあげました。けれども、エチオピア
の土は、わたしたちのもっているものの中で、一ばんたいせつな
ものなのです。ですから、たとえ、ひとかけらの土でも、さしあ
げることはできません。」 岩波お話の本・山の上の火より

四大文明発祥地の一つエジプトは「ナイルの賜もの」といわ
れます。きまって洪水を繰り返えし、豊穣をもたらすナイル河。
それはその河の源・ブルーナイルが発するアビシニア(エチオ
ピアの古名)高原の大地が、豊かな黄金の土であったことの
証でもあります。

2010年7月9日金曜日

モカに始まり…

                                              モカ港


モカ珈琲に魅せられて38年、日々、その美味しさを求め、選び抜いた生豆、直火焙煎、手製のネル・ドリップ、そしてイエメン・エチオピアの文化を研究し一杯のコハクの珈琲に結晶させお客様に提供しています。


        http://www.cafebimi.com/